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第2話 あなたしか救えない

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-28 11:08:47

 征士郎の言葉が落ちたあと、食堂には雨音だけが残った。

 窓硝子を打つ細かな雨粒が、絶え間なく流れ落ちている。卓上の蝋燭は短くなり、溶けた蝋が白い皿の縁へ細い筋をつくっていた。赤ワイン煮の湯気はもう薄く、甘く煮詰めた玉葱の匂いだけが、冷え始めた料理の上に澱んでいる。

 美琴は膝の上で手を重ねた。

 右手の人差し指には、万年筆を握った時についた黒いインクが小さく残っていた。署名欄へ落ちた一点と同じ色だった。

「見殺しにするつもりなど、ありません」

 喉の奥が乾いていた。それでも、一語ずつ形を崩さないように言った。

「ただ、今夜初めて知らされた手術に、すぐ署名することはできません。検査に私の血液が使われた経緯も、この委任状の内容も、病院で直接説明を受けたいのです」

 征士郎は黙って美琴を見ていた。

 怒鳴らない。机を叩きもしない。その静けさが、かえって美琴の呼吸を浅くした。

 彼はいつもそうだった。

 結婚したばかりの頃から、征士郎は声を荒らげなかった。美琴が父の会社の帳簿を夜遅くまで見ていれば、「身体を壊したら、父上も悲しむ」と本を閉じた。取引先との会食へ同行したいと願えば、「君が出れば相手に余計な気を遣わせる」と家に残した。

 拒まれたのではない。

 気遣われたのだと、そう思わされてきた。

「病院へ行くことは構わない」

 征士郎がようやく口を開いた。

「だが、医師から同じ説明を受けたあと、君はどうするつもりだ」

「それは、説明を受けてから考えます」

「華帆には、その考えている時間がない」

 低く整った声だった。責める響きはない。それなのに、その一言は美琴の胸へ重く沈んだ。

 華帆が小さく息を呑む。

 喜和子は椅子の背へ身体を預け、目元を細めた。

「美琴。あなたは、まだ自分の置かれている立場が分かっていないようね」

 老女の指が、卓上の薬包へ触れた。朝、美琴が一回分ずつ分けて並べたものだった。

「立場、ですか」

「家族としての立場です」

 喜和子は薬包を持ち上げ、裏表を確かめるように眺めた。

「あなたが父親を亡くした時、帰る家のないあなたを迎えたのは、誰だったかしら」

 美琴の指先がわずかに強張った。

「お父さまが亡くなった時、あなたはまだ十九にもなっていなかった。会社のことも、相続のことも分からず、頼れる親族もいなかった。征士郎が夫として支え、榊原家があなたへ住む場所を与えたのです」

「父が亡くなる前から、私は征士郎さんと結婚していました」

「だからこそ、守られたのでしょう」

 喜和子は間を置かなかった。

「二十二年です。二十二年ものあいだ、あなたは榊原の家で何不自由なく暮らしてきた。食べる物にも、着る物にも、住む場所にも困らなかった。世の中には、夫を亡くしたり、家を失ったりして、一人で生きていかなければならない女性がいくらでもいるのよ」

 美琴は食卓へ目を落とした。

 金縁の皿。磨き上げた銀食器。切り揃えられた花。朝から自分が用意したものばかりだった。

 何不自由なく暮らした。

 その言葉の内側へ、二十二年分の朝が沈んでいく。

 午前五時より前に起き、家族の好みに合わせて別々の食事を作った朝。喜和子が入院した時、病院と会社を往復しながら、夜中に洗濯物を畳んだ日々。征士郎の会社で経理担当者が突然辞めた時、三か月分の帳簿を一人で組み直し、資金不足を見つけた夜。

 報酬を受け取ったことはない。

 会社の名刺を持ったことさえない。

 けれど、取引先への支払日も、借入金の利率も、毎月不足する金額も、美琴だけが知っていた。

「私も、この家のためにしてきたことがあります」

 口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

 喜和子の眉がわずかに上がった。

「何ですって?」

「家のことも、会社のことも、できる限りしてきました。征士郎さんの仕事を手伝ったことも――」

「妻が夫を支えるのは、手伝いとは言いません」

 柔らかな声で、言葉が切り落とされた。

「家事をするのも、夫の足りないところへ気を配るのも、家族なら当然のことでしょう。それを恩に着せるなんて、あなたらしくもない」

 美琴は唇を閉じた。

 舌の奥に、鉄のような味が広がった。知らないうちに内側を噛んでいた。

 喜和子は華帆へ視線を移す。

「それに、あの子をこの家へ迎えることを許したのは誰です」

「華帆は私の妹です」

「榊原家には血のつながりがありません」

 喜和子の声が、わずかに硬くなった。

「どこの誰とも知れない女が産んだ、あなたの父親の婚外子。それを榊原家の養女として迎え、治療費を払い、こうして屋敷で療養させている。征士郎と私が認めなければ、できなかったことです」

「お義母さま」

 華帆が弱々しく呼んだ。

 喜和子はすぐに表情を和らげた。

「あなたを責めているのではないのよ、華帆。あなたは何も悪くないわ」

 華帆の瞳に涙が滲んだ。

 美琴はその横顔を見つめた。

 三年前、華帆が初めて榊原邸を訪れた日のことを思い出す。

 母を亡くし、父の遺した古い写真だけを胸へ抱いていた十八歳の少女。玄関の外で震えながら、「お姉ちゃんと呼んでもいいですか」と尋ねた。

 美琴は迷わず抱きしめた。

 父が残した罪ではなく、父が残した家族だと思った。

「私が、華帆を迎えたいとお願いしました」

「ええ。だから認めてあげたのです」

 喜和子は当然のように頷いた。

「その恩を返す機会が来たのでしょう」

 返す。

 その一言が、胸のどこかへ冷たく刺さった。

 妹を家へ迎えたことも、二十二年間暮らしたことも、すべてはいつか身体で返すための借りだったのだろうか。

「肝臓は、切っても再生すると医師から聞いています」

 喜和子は続けた。

「もちろん手術に危険がないとは言いません。でも、華帆は提供を受けなければ命に関わる。片方は一時の苦しみで済み、片方は命を失うかもしれない。それなら、家族として何を選ぶべきか、考えるまでもないでしょう」

「私にも、危険はあります」

「あなたは健康よ」

「健康だから、危険を引き受けて当然なのですか」

 口にした瞬間、美琴自身が息を止めた。

 喜和子も、華帆も、彼女を見た。

 二十二年間、美琴はこうして言葉を返したことがほとんどなかった。

 征士郎の指先が、卓上を一度だけ叩いた。

「母さん」

 彼が静かに呼ぶと、喜和子は口を閉じた。

 征士郎は美琴の正面へ座り直した。距離は変わっていない。それでも、彼の身体が少し前へ傾いただけで、美琴には逃げ道が狭まったように感じられた。

「美琴。君を責めたいわけではない」

 声は穏やかだった。

「突然のことで、混乱しているのは分かる。手術が怖いのも当然だ」

 理解を示す言葉に、張り詰めていた胸がわずかに緩みかける。

 征士郎は、その隙間へ静かに言葉を差し込んだ。

「だが、君にしか頼めない」

 美琴の喉が動いた。

「他の候補者も調べた。母さんは高齢で、私には血縁がない。華帆の母方の親族は、健康状態や体格の条件が合わなかった。君が最も可能性が高い」

「正式な検査も受けていないのに、どうしてそこまで分かるのですか」

「専門家が判断している」

「その専門家と、私は一度も話していません」

「明日、会えばいい」

 征士郎は微笑んだ。

 先ほど消えたはずの笑みが、何事もなかったように戻っている。

「説明を受ければ、君も納得する。君は昔から、誰かを見捨てられる人間ではない」

 それは褒め言葉の形をしていた。

 けれど、美琴には首へ巻かれた細い紐のように感じられた。

「華帆はまだ二十一だ」

 征士郎は華帆へ目を向けた。

「これから先、いくらでも生きられる。結婚をして、子どもを持ち、自分の家庭を築くこともできる。君には、その未来を残す力がある」

 美琴は膝の上の手を握った。

 自分にも、かつて未来はあった。

 十八歳で結婚した時、いつか子どもを持ち、父の会社を立て直し、夫と同じ方向を見て年を重ねるのだと思っていた。

 けれど、流産した子どもの話をこの家でする者はいない。

 美琴が四十歳から先をどう生きたいのか、尋ねる者もいなかった。

「お姉ちゃん」

 華帆が椅子を立った。

 床を擦る脚の音が響く。

 彼女は美琴の隣へ膝をつき、両手で美琴の右手を包んだ。

「ごめんなさい。私のせいで、みんながこんなふうになって」

「あなたが謝ることではないわ」

「ううん。私が病気だから」

 華帆の肩が細かく震えた。伏せた睫毛から涙が落ち、美琴の手の甲へ触れる。

「怖いよね。身体を切るなんて、私だって怖い。お姉ちゃんだけに頑張ってなんて言えない」

 華帆は顔を上げた。

 大きな瞳が涙に濡れていた。

「怖いなら、私も一緒に頑張る」

 その言葉とともに、彼女の指へ力がこもった。

 袖口が少しだけずれた。

 白い手首に、銀色の腕時計が現れた。

 文字盤の周囲へ、小さな青い石が十二個埋め込まれている。六時の位置には、ごく細い傷が一本走っていた。

 美琴の呼吸が止まった。

 見間違えるはずがなかった。

 五年前、征士郎の誕生日に贈った腕時計だった。

 榊原医療開発が初めて大きな病院グループとの契約を結び、征士郎が「これでようやく会社も安定する」と笑った年。美琴は自分名義のわずかな預金を取り崩し、その時計を買った。

 裏蓋には、結婚記念日と二人の頭文字を刻んでもらった。

 けれど半年前、征士郎は時計をなくしたと言った。

 出張先のホテルか、移動中の車内で落としたのだろうと。

「華帆」

 美琴の声がかすれた。

「その時計……」

 華帆の視線が、自分の手首へ落ちた。

 一瞬、表情が消えた。

 次の瞬間には、慌てたように袖を引き下ろしていた。

「これ?」

「見せてくれる?」

「古いものだよ。お義兄さんが、もう使わないからって」

 言いながら、華帆の指が袖口を強く掴んだ。

 征士郎は美琴を見なかった。

 卓上の書類を揃え、わずかにずれた紙の角を指で合わせている。

 その仕草が、何より不自然だった。

「なくしたと聞いていました」

 美琴は征士郎へ向き直った。

「あの時計は、出張先で紛失したと」

 征士郎は紙から目を上げた。

「見つかったんだ」

「いつですか」

「だいぶ前だ。引き出しの奥にあった」

「それを、華帆へ?」

「私には若すぎるデザインだ。華帆が気に入ったから譲った。それだけのことだ」

 声には揺れがなかった。

 けれど、美琴が知る限り、征士郎は一度もあの時計を若すぎると言ったことがない。贈った日には、明日から毎日使うと笑っていた。

 華帆は美琴の手を離し、自分の手首を胸元へ抱き込んだ。

「ごめんなさい。お姉ちゃんからの贈り物だって知らなかったの」

「裏に刻印があったでしょう」

 華帆の唇が、かすかに震えた。

「見てないから……」

 見ていない者の手つきではなかった。

 袖の上から時計を隠す指が、裏蓋の位置を正確に押さえている。

 美琴の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

 征士郎が華帆の病院へ付き添う回数が増えたこと。

 二人で帰宅する時、玄関の前で声を潜めていたこと。

 華帆が征士郎の好みを、美琴より先に答えた夜。

 今まで気に留めなかった小さな場面が、暗い水の底から一つずつ浮かび上がってくる。

「美琴」

 征士郎の声が、それらを押し沈めた。

「今は時計の話をしている場合ではない」

「そうですね」

 美琴は華帆から手を引いた。

 触れていた箇所に、冷たい汗が残っていた。

「ですが、署名はしません」

 喜和子が息を呑んだ。

 華帆の顔から血の気が引く。

 征士郎だけが、しばらく動かなかった。

「今夜は、という意味か」

「病院で説明を受け、検体が使われた経緯を確認し、私が信頼できる医師にも相談します。それまでは、どの書類にも署名しません」

「明日の朝までに返事が必要だと言ったはずだ」

「私の身体に関することです」

 声が震えた。

 それでも、美琴は視線を落とさなかった。

「私が決めます」

 蝋燭の炎が大きく揺れた。

 征士郎の目の奥に、見たことのない暗さがよぎった。けれど彼はすぐに瞼を伏せ、書類を箱へ戻した。

「分かった」

 あまりにも容易な返事だった。

 美琴はかえって身構えた。

「今夜は休みなさい。明日、改めて話そう」

 征士郎は立ち上がった。

 華帆の肩へ手を添える。

「疲れただろう。部屋へ戻れ」

「でも、お姉ちゃんが……」

「今は何を言っても聞かない」

 責める口調ではない。

 困った家族を宥めるような声だった。

 華帆は美琴を見つめたまま、征士郎に導かれて食堂を出ていった。すれ違う瞬間、袖の内側で金属が小さく鳴った。

 美琴だけが、その音を聞いた。

 喜和子も立ち上がった。

「あなたは、自分が選ばなかった結果を、最後まで背負えるのでしょうね」

 薬包を手に取り、彼女は食堂を去った。

 一人残された美琴の前で、料理はすっかり冷めていた。

 切り分けられることのなかった肉。火を灯す必要のなかった蝋燭。自分で買った花。

 窓硝子へ映る四十歳の女は、祝われることを期待して、朝から食卓を整えていた。

 美琴は蝋燭の火を吹き消した。

 白い煙が細く立ち上り、焦げた芯の匂いが鼻に残った。

 夜が更けても、征士郎は寝室へ戻らなかった。

 美琴は着替えを済ませ、ベッドの端で本を開いていた。文字を追っても、何一つ頭へ入らない。

 腕時計の青い石。

 袖を隠した華帆の手。

 視線を逸らした征士郎。

 時計を譲っただけだ。

 妹の病気を気遣い、身につける物を与えただけ。

 そう考えようとするたび、胸の底から別の声が浮かんだ。

 どうして、嘘をついたの。

 午後十一時を過ぎた頃、美琴は水を飲もうと寝室を出た。

 廊下の照明は落とされ、足元灯だけが薄い橙色の光を広げている。雨は止んでいた。屋敷の中は深く静まり、古い柱が時折、小さく軋んだ。

 階段へ向かいかけた時、二階の奥から声が聞こえた。

 華帆の部屋だった。

 扉は完全には閉まっていない。細い隙間から灯りが廊下へ漏れている。

 美琴は足を止めた。

「……本当に、大丈夫なの?」

 華帆の声だった。

 昼間の弱々しい響きとは違う。低く、苛立ちを押し殺している。

 返事をしたのは征士郎だった。

「何がだ」

「お姉ちゃん、思ったより頑固だった。時計のことまで気づいたし」

「余計なことを言うな」

「だって、あれ、あなたがくれたんでしょう」

 美琴の足裏から、ゆっくり感覚が失われていった。

 暗い廊下で、指先が壁紙へ触れる。ざらついた感触が皮膚へ食い込んだ。

「声を落とせ」

 征士郎の低い声。

 しばらく、衣擦れの音がした。

 華帆がさらに小さな声で言う。

「お姉ちゃんが最後まで拒んだら、どうするの」

 沈黙があった。

 ほんの数秒。

 美琴には、その時間が異様に長く感じられた。

 やがて征士郎が答えた。

「拒める状態にしておかなければいい」

 美琴の呼吸が止まった。

 部屋の中で何かが動き、床板が鳴った。

 美琴は壁から手を離し、音を立てないように後ずさった。踵が絨毯の継ぎ目へ引っかかる。身体が傾きかけ、咄嗟に口元を押さえた。

 息がうまく吸えない。

 胸の奥が硬く縮まり、心臓だけが激しく打っている。

 美琴は自分の寝室へ戻った。

 扉を閉じ、鍵はかけなかった。鍵をかければ、聞いていたことを知らせる気がした。

 暗い室内を横切り、化粧台の前に立つ。

 銀色の小さな薬入れが置かれていた。

 征士郎が毎晩、美琴のために用意する睡眠薬。

 最近眠りが浅いとこぼした美琴へ、関連病院の医師に処方してもらったものだった。征士郎は就寝前になると水と一緒に運び、飲むところまで見届けることがあった。

 今夜の分も、すでに白い小皿へ載せられている。

 丸い錠剤が二つ。

 いつもは一つだった。

 美琴は震える指で、一錠をつまみ上げた。

 白く、匂いもなく、軽い。

 拒める状態にしておかなければいい。

 廊下の向こうで、足音がした。

 一歩ずつ、寝室へ近づいてくる。

 美琴は錠剤を掌へ握り込み、化粧台の鏡を見た。

 鏡の中で、扉の取っ手が静かに下がり始めていた。

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     白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ

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     九条家本邸の会議室には、窓がなかった。 黒い木の長机と、壁際に並ぶ書棚。天井へ埋め込まれた照明は白く、朝とも夜ともつかない光を落としている。 美琴は長机の末席に座っていた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚にも硬い装具が巻かれ、椅子の脇には杖が立てかけてある。脇腹の傷は、長く座っているだけでも鈍く疼いた。 それでも、美琴は背筋を伸ばしていた。 机の中央には、九条家が美琴の保護へ使った費用の一覧が置かれている。 九条総合医療センターでの緊急手術。 集中治療室と個室の使用料。 二十四時間の警護。 崖上と周辺道路の調査。 久世の弁護士費用。 筆跡鑑定、医療記録の照会、役所への書類保全請求。 そこへ、独立した医療機関での精神鑑定費用まで加わっていた。 合計額を見て、美琴は一度だけ息を止めた。 普通に働いて返せる金額ではない。 正面には九条紫が座っている。 濃い墨色の着物に銀の帯。細い指で費用一覧の頁を押さえ、老いた目を美琴へ向けていた。 冬真は美琴の隣ではなく、長机の右側に座っている。腕を組み、会議が始まってから一度も資料へ視線を落としていなかった。 紫が口を開く。「あなたが本邸へ入ってから、九条家の人員と資金がどれほど動いたか、お分かりですか」「一覧を拝見しました」「数字を読める方なら、感想もあるでしょう」「私一人へ使うには、大きすぎる金額です」「その通りです」 紫は淡々と答えた。「あなたは夫に殺されかけ、崖下で冬真に拾われた被害者です。九条家が救助と治療を行ったこと自体を問題にするつもりはありません」 そこで言葉を切り、冬真を見た。「ですが、その後も病院、護衛、弁護士、調査員を継続して動かしている。冬真の私情によってです」「俺が決めた」 冬真がすぐに口を挟んだ。「美琴へ請求する必要はない」「あなたには聞いていません」「俺の金をどう使おうが――」「冬真」 美琴が呼んだ。 彼の顔がこちらへ向く。「私に話させてください」「お前が払う話ではない」「それを決めるための会議です」「決まっている。俺が払う」 冬真の声には、議論を終わらせる力があった。 だが美琴は目を逸らさなかった。「それでは、私はまた何も知らないまま、誰かが支払った場所に座ることになります」「榊原と同じにするな」「同じには

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